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2010年05月25日

にこにこ元気な本村周一(沖縄美健代表)のキセキ!~第一章~

にこにこ元気な本村周一(沖縄美健代表)のキセキ!

~第一章~


にこにこ元気な本村周一(沖縄美健代表)のキセキ!~第一章~

- 本村さんは、サラリーマンの経験があるそうですね。

 そうです。県内大手スーパーで2年くらい働いてましたね。


- 起業のきっかけは?

 学生の頃からマスコミに行きたくて、”何かを創りたいという想い”で、就職の際は、東京の番組製作会社と沖縄のテレビ局を受験していました。
一次はどちらも受かっていたけど面接日が重なってしまっていて、そしたら「沖縄の方がいいな」ということで沖縄のテレビ局を受けたら、見事に落ちてしまいました。

夢は諦めて、現実として働く道を選び、ちょうど親父の勤めていた県内の企業グループに頼み込んで就職しました。
自分なりに一生懸命に仕事はしていましたが、就活シーズンなると、社会人にもかかわらずマスコミ採用募集に応募しているんです。
その度にある程度(いいところまで)進むんだけど、ダメで・・・。
でもやっぱり次の年も応募するんですよ。なぜか・・・。
ということは、「やっぱり俺“何かを創る”っていうこと、諦め切れてないんだ」ってこと気づいて。
そういう意味で振り返ってみると、スーパーで働いた2年間は、自分の想いを再確認する貴重な2年間でしたね。

-「造る」「作る」ではなく「創る」つまりクリエイティブな仕事をしたいと。

そう。「アイディア」を形にしたい」、という想いが強かった。
そのとき、少し、視点を変えてみたんです。すると、気づきました。
マスコミ系の製作の仕事というのは、ある意味、「クライアント」の想いを自分のセンスやアイディアで、どう工夫して形にするのかが仕事。僕が、「何かを創りたい。」と想っているのは、実は、製作側(実務・技術)のほうでなく、クライアント側のほうだった。ということでした。
この「ほんの少し視点を変えた」ということが、実は起業する大きなきっかけになりました。
自分がクライアント(経営者)になれば、自分が思うようにプランを立てて「想いを表現できる」ということことに気づいたんです。


- じゃあ、最初はCMとかを作りたいというのが目標だったと。

物書きも好きで、学生の時にラジオドラマのシナリオとか応募したら、結構選ばれたりしたことがありまして。
この経験は「自分のやりたいことや夢は、実は直接そこに行かない方が、叶う場合がある」ということを教えてくれました。
まわり道をしても、夢にたどりつくことってあるかもしれませんね。
たまに、学生向けに講演会をしますが、いつも、このエピソードは伝えています。

実際にラジオCMを自分で創ることもできたし、(*「♪飲んでる~飲んでる~」という数年前に、FM沖縄さんで流したもの)。実は、あのCMは自分で考え、自分の声で録音したものなんですよ。
そのあとにも、オリジナルの癒し系のCDとかも創ったんですが、やっぱりビジネスという点でみてみると、社長の個人的な趣味とビジネスは分けないといけないって痛感しました。
当時は「やった~自分の夢叶えたぞ~」ってウキウキして、むちゃくちゃお金かけてやってしまいましたた。もちろん大赤字で・・・。
やっぱり、クリエイティブなものってうまくビジネスに乗っていけばいいけど・・・難しいですよね。

そういう経験をふまえて、今では会社を作って、運営していくことが、「最大のクリエイティブやっさ~」って思ってます。
今までやってたラジオCMとかは、その(会社経営というクリエイティブの)中の一部ってとらえたほうがいいなと思っています。
だからそれからは、「究極のクリエイティブってやっぱり会社だな~」て思うようになりました。
ある意味会社ってすべての能力やセンスや資源を最大限発揮して、その企業の使命を表現する芸術作品でもあるし。だから、仕事とか、会社って僕にとっては究極の芸術作品って思います。


-(沖縄美健の)始まりは行商からだそうですね。

 スーパーの店員時代にちょっと気がついたんですけど、ちょうどその当時いわゆる“沖縄ブーム”の真っ最中で「うっちん」とか、「黒糖」とか、スーパーに買いに来る観光客のみなさんが結構いました。
「やっぱりさ~沖縄通はみやげもの店では買わないんだよね~ スーパーで買ったらほら、こんなに安いでしょ~」「空港で買うの初心者だよ~」って(笑)。
それで、「あ~これから健康のニーズと沖縄ブームと重なるな~」っていうの肌で感じていました。
また、自分は、復帰した年に生まれた「復帰っ子」なんですが、たまに「復帰した年に生まれた俺の意味ってなんだろう」って哲学的に考えることがあって。
そこから「何か沖縄に関わるものがやりたい」って漠然と考えていました。


ちょうど、当時俺の親父が健康食品を取り扱ってるメーカーにいて、「沖縄の健康食品なら安く仕入れる事が出来るんじゃないか」って、それがきっかけです。

何名かの方に出資もしてもらい、自分も貯金をはたいて、晴れて“社長”としてスタートを切りました。だけど社長といっても実は、共同経営のような形で、代表者は別にいましたが、その方は、意外にお金にルーズで・・・・。
売り上げは全部もっていくし、家賃は払わない、仕入代も払わない・・・。
今思えば、これも大事な経験でしたが、当時はけっこう大変でした。
松山でリュックサック担いで行商していたのも、「仕入れ代払わなきゃ、明日は電気代払わない止められる~」って状態があったからです。

また、当時、薬屋の一角をかりてやってたけど、そこも(その共同経営者の)知り合いだったので、薬屋のオーナーさんに、「こいつに店番もやらせるから家賃まけて」ということで、なぜか、僕が店番しながら(うっちん茶の販売の仕事)やることになったんです。
わけのわからないままでしたが、当時は案外まじめ(薬屋の店番)にやっていましたね。
ある商品の販売実績でメーカーから表彰されたりして。(笑)
でもそこからが大変だった。
この薬屋のオーナーが、けっこう年のいったおじいちゃん、おばあちゃんで、「もうあんたにまかせるさ~」ってことである日突然行方不明になりました。

当然、仕入れ業者の方々が代金回収にきて、なぜか自分が責任を持つことになりました。まあ、お人好しも度がすぎていたのが、当時の自分ですね。(笑)
でもなんとなく、逃げられない感じだったんでこれもがんばって、ちょっとづつ払っていきました。
うっちん販売も薬屋も、「とにかく日銭稼がなきゃ!」っていうのが、正直な気持ちで、「あれー、俺、なにやってんだろう?」と、けっこうへこむこともありましたよ。当時は、朝から晩までその日その日が勝負の毎日でしたね。


― リュックサック担いでの(うっちんの)営業はどうでした?

 最初は飲み屋さんとかに卸していたのですが、その時に店の中で、おつまみや、花の行商してる人がけっこういて、「そういえば、ウコンを売ってる人はいないなぁ。これなら俺にもできるかも」って思って、見よう見真似で始めてみました。
そしたら、それがけっこう売れて。そのうち月に数十万の収入にもなった。
正直、そのまま続けてたら「うっちんセレブ」とかなってたかも(笑)。


- でもそう(行商を続けることを)しなかった。

  行商続けて、案外儲けさせてもらったお陰で少しづつ貯金できて、「自分でこの会社を買い取ろう!」と決めて、実行しました。
そして会社名を「沖縄美健」と決め、再出発しました。
ちなみにこの名前は「うちな~びけ~ん」って沖縄方言からとったもので、「何か沖縄のためになることを」「美と健康をテーマに」という想いを込めてつけたもの。
この買い取って登記した日、平成10年7月23日というのが沖縄美健の創業ということになりました。


~第一章終わり~

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Posted by CPマエモト(内気なコミュニケーションプランナー) at 17:00│Comments(0)起業家インタビュー
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