2011年01月26日
沖縄起業家インタビュー第1章 クララ薬局
まじゅんの会プロデュース!
有限会社 クララリエゾン 「クララ薬局」
代表取締役 宮城 敦子
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第一章 ~幼き頃の夢、薬剤師へ~
―薬剤師を目指されたきっかけについて聞かせてもらえますか。
実は、私が小学校1年生の時に父を脳溢血(脳内出血)で亡くしまして、それが医療の道を意識したきっかけです。身内にも医療関係者がけっこういたということもあって、漠然とではありますが「人を助けるってすごい仕事だなあ」と感じていました。そのうち、近所の薬屋さんの白衣を来た女性店員さんに憧れるようになって、「あのお姉さんみたいになりたいな」と思うようになりました。小学校5,6年生の文集には「薬剤師になる」とはっきり書いてありました。
―まさに、子供のころからの夢を叶えたというわけですね。そうは言っても薬学部、薬剤師の国家試験は大変難しいと聞いています。挫けそうになったことなどはありませんでしたか。
私にとって薬剤師は「なりたい」のではなく「なるもの」だと思い込んでいましたので、将来は薬剤師になるというビジョンしか頭にはなかったです。高校時代に先生から「君の成績では国立大学の薬学部は厳しいけどな」と諭されたりもしましたが、「何とかなる」としか思えなくて(笑)。実際は私立大学の薬学部にどうにか滑り込んだというところです。
以前、ある本で知った言葉ですが「現在の自分は過去の自分の未来の姿」というのが、本当にその通りだと実感しています。だから、今の私も未来の自分のためにたくさんの夢を持っていようと思っています。
― 夢を叶えて薬剤師として働き始めてから「クララ薬局」を設立されるまでの経緯をお聞かせ願えますか。
大学を卒業して、最初務めたのが県立那覇病院で、一年間の嘱託勤務ということで始まりました。その後正職員の試験を受けないか、という話はあったのですが「いろいろ経験したい」というのもありまして、民間の病院を探しました。そして「沖縄第一病院」に採用されて、それから10年ほど勤めさせていただいた後、独立開業することになりました。その時期は国からの「医薬分業」方針の中で「院外処方せん」の動きが活発でした。私が勤めていた病院でもそういう空気が強くなっていました。薬剤師としての仕事を始めたころは独立開業など考えもしなかったのですが・・・私の中で「流れ」が来ているという感じがしたんです。直観というんでしょうか(笑)。「今、独立しなきゃ、後悔する!」と。
今考えると、ほとんど衝動的な開業でしたから準備などまるでしていません。法務局での登記や損益計算書などの経営指標も分かるはずもなく・・・それこそ、歩きながら壁にぶつかっている感じで、「あいつ本当に大丈夫か?」と周りはヒヤヒヤだったと思いますよ。
―それが今では4店舗のグループになっていますね。
おかげさまで。でも開業して3日くらいで、あまりの仕事の忙しさに「あ、向いてないなあ」と思いましたよ。3か月もつかなと。人手も時間も足りない日々で、今思うと本当に大変でした。でもそうしているうちに1年が過ぎ、3年目くらいまでくると「もう一店舗ほしいな」と思って(笑)。鹿児島の店舗は知人の開業を手伝う形で、一応グループ傘下にしてあるだけですので基本的には独立しているようなものです。
―憧れの職業でしたでしょうが、「これはつらかった、きつかった」という経験はありますか。
やはり、患者さんを相手にする仕事なので、必ずしも明るい雰囲気でお相手できるわけではありません。場合によっては患者さんとのコミュニケーションにストレスを感じることもあります。若いころはそれが疲れとしてのしかかってくる時期もありました。でも私はそれを、ジョギングやゴルフといった運動で汗を流すことでリフレッシュすることを覚えてからは、そうストレスも感じなくなりました。那覇マラソンは10回以上出ました(笑)。
―それは宮城社長の精神的な強さでもあるのでは。
先ほども言いましたが、私は運動が好きで大学時代も硬式テニス部のバリバリの体育会系でした。なので多少きついことを言われたりしてもあまり効かないですね(笑)。でもそうかというと、ただ「打たれ強い」だけではなく、私としては「柳のように」受け流すタイプだと思います。どんな風雨にさらされても柳のように「しなって」受け流すのです。そのほうが、いろいろな状況にあって、柔軟に臨機応変に対応できるのかなと思います。
~第2章へ続く~
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Posted by CPマエモト(内気なコミュニケーションプランナー) at 09:00│Comments(0)
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